2016年9月4日

「全ての人が幸せでない限り、自分の幸せはあり得ない」

「全ての人が幸せでない限り、自分のしあわせはあり得ない」

宮沢賢治もルドルフシュタイナーも言ってた言葉ですが、これは私の座右の銘でもあります。

今この動画を観て更新するならば、「全てのいきものが幸せでない限り、一人の人間も幸せではあり得ない」

あたしはそう言えます。


そうなると私の日常生活がグレーに見えてしまうでしょう。

でも、もしあなたがそう感じるのならば、あなたの幸せや喜びの感情は本物ではありません。

そう思うあなたの幸せ観はこの社会のピラミッド型支配構造に準じるように刷り込まれ操作され、感情までもがコントロールされているからです。

これはあまりにも日常的埋没感情なので気付きませんが、戦中の洗脳感情とあまり大差はありません。


ここでは、自分の自我を他者にゆだねてしまう不幸が充満しています。


要するにこの幸せに満たされた人たちは何かを崇めているのです。

そしてその崇めたものに従うかたちで幸せ感がご褒美のようにぶら下がっている。そう言う幸せは大衆のエサにすぎません。

それがヒーローであったり、ステータスであったり、アイドルであったり、社会的な地位、勝ち組・金だけではありません、他者より多く所有すること、幸せ感情を引き寄せることなどもその対象で、場合によってはほとんどの日本人が気付かない頂点への盲目的崇拝は天皇教というかたちで日本人の潜在意識に根深く食い込んでいるのです。

ためしに私が「天皇家はホームレスの人たちと一緒のレベルだよ」と私が言ったとしたら、あなたはそれに対し何らかのネガティブな感情を抱くでしょう。

これが痛いところに触れたくない根深い感情です。普段はめったに浮上してくることはありません。


では、本当の幸せ・喜び観とは何か。

これは人間の精神構造の進化にともなって変化してきています。

人によっては他者・動物・生物・植物を犠牲にして得られるもの(出来事・変化・食べ物)が喜びに変わります。

今でもこれを散々繰り返してきた人たちの時代が続いてますが、これに対して根深い感情が変化してきた人たちもいます。

これが魂の進化というもので、他者の不幸の上に自分の人生を上乗せることに辟易してきた者たちです。

このような人たちは全ての生命が自分の命の一部であるという根深い感情に目覚めます。

この感情に目覚め始める人達は、端的に分かりやすい例でいえば意識的に宝くじなど買わなくなります。


つまり宝くじの幸せは、その背後に無数の人の小さな犠牲と微小な敗北感と金をすったさみしさといった感情によって成り立っていることに気付くからです。


これは競技スポーツやビジネスの世界でも同じでことが起きています。学校教育から何から何もでの競争ゲームは檻の中の勝利と捧げものにすぎません。

皆、負け組という生け贄を頂点に捧げて「幸せ」と言うご褒美をむさぼっているにすぎません。


。。。ここからもう少し洞察を深めたいが今日は時間となってしまったのでまた別の機会に話すことにします。


本日は、以上。